専門学校のころの、ある飲み会でのことです。
その日の僕は、家を出る前から作戦を決めていました。「今日は明るいキャラでいく。ボケて、笑いを取る」。友達のいなかった僕が絞り出した、精一杯の計画でした。
乾杯から一時間ほど経ち、話の切れ目がきます。僕は、頭の中で何度も練習した冗談を口にしました。声は裏返り、言葉は途中でつまりました。数秒の沈黙のあと、誰かがそっと別の話題を出してくれたのを覚えています。
テーブルの下で、手のひらに汗がにじんでいました。
「友達を作らなきゃ」という焦りが始まりでした
どうして、そんな無理をしたのか。理由ははっきりしています。友達がいないことが、怖かったからです。
周りを見れば、みんな冗談を言い合って笑っていました。あの輪の中では、面白い人から順に選ばれていくように見えたのです。無口なままの自分では、誰にも選ばれない。だったら、バカになってでも笑いを取るしかない。当時の僕は、本気でそう信じていました。
いま思えば、それは「友達の数が人間の価値だ」という思い込みでした。でも当時は、その思い込みの外に出る方法を知りませんでした。
すべり続けた日々のこと
それから僕は、柄にもないことを何度もやりました。
テレビで見たネタを覚えて、そのまま言ってみたことがあります。場に合わず、流れました。大きな声でツッコミの真似をして、変な間だけが残ったこともあります。笑ってほしいところで笑いは起きず、どうでもいい失敗だけが確実に恥ずかしい。そういう夜を、数えきれないほど重ねました。
はっきり書いておきたいのですが、周りの人が冷たかったわけではありません。みんな大人で、すべった僕を責める人はいませんでした。優しく流してくれる、その優しさが余計に情けなかった。それだけの話です。
いじられ役を買って出たこともあります。自分から変なあだ名を名乗り、雑に扱われても笑ってみせました。その場では確かに、輪の中にいる感覚があったのです。ただ、家に帰って一人になると、どっと疲れが出ます。「今日の僕は、誰だったんだろう」と思いながら眠る夜が続きました。
帰り道はいつも一人で反省会でした。「なんであんなことを言ったんだ」と、布団の中で何度もつぶやく。翌朝になっても、恥ずかしさは消えていませんでした。
一番苦しかったのは、うまくいった日でした
意外に思われるかもしれませんが、たまに笑いが取れる日もありました。
ところが、その日の帰り道が一番苦しかったのです。「次も面白くいなければ」という宿題を、自分に課してしまうからです。ウケた瞬間の高揚はすぐに消え、あとには維持の重さだけが残りました。
しかも、作った明るさは長続きしません。二回目、三回目と会ううちに、素の無口さはたいてい顔を出します。そのたびに「あれ、こんな人だったっけ」という空気を感じて、また無理を重ねる。悪循環でした。
作ったキャラで好かれても、好かれているのは僕ではありません。素の僕は、静かで、口数が少なくて、面白い話の一つもできない人間です。キャラと素の距離が開くほど、人と会うことそのものが怖くなっていきました。
無理に笑いを取ろうとした日々で学んだのは、結局これだけです。自分ではない誰かとして好かれても、苦しさが増えるだけ。
無理をやめるのは、諦めではありませんでした
道化をやめると決めたとき、正直「これで一生、輪に入れないかもな」と思いました。負けを認めるような、少し苦い気分です。
でも、実際に起きたことは違いました。無理をやめた僕に残ったのは、敗北感ではなく静けさでした。会話の前に台本を用意しなくていい。すべったあとの反省会もない。何者かを演じ続ける緊張から降りただけで、日々の消耗がまるで違ったのです。
笑いを取れる人への憧れは、今もゼロではありません。それでも、憧れることと「自分もそうなるべきだ」は別の話です。歌が苦手な人が無理に歌手を目指さなくていいように、僕も無理に面白い人を目指さなくてよかったのです。
ありのままの静かな自分でいい
僕はもう、笑いを取ろうとするのをやめました。
やめたからといって、友達が増えたわけではありません。僕には今も友達がいません。それでも、無理な明るさを手放してから、人と会う前の憂鬱は確実に軽くなりました。静かに座って、相手の話に「へえ、そうなんだ」と返す。できるのはそれくらいですが、それで十分だと今は思っています。
面白さは、人との関係を作る唯一の入り口ではありません。静かに聞けること、約束を守ること、感じよく頷けること。そういう地味な持ち味の活かし方は、話せなくても、強みで生きていくに書きました。
もしあなたが今、飲み会の前に「面白いことを言わなきゃ」と胃を重くしているなら。先にすべり倒した僕から言えるのは、一つだけです。無理に笑いを取らなくても、あなたの居場所は作れます。静かなあなたのままで大丈夫です。
なお、無理な自分を演じ続けて消耗が強く、つらさが長く続いている場合は、一人で抱え込まないでください。カウンセラーなど専門家に相談するという選択肢もあります。