中学2年の音楽室。 合唱の練習で、先生が「男子、もっと声出して」と手を叩きました。 僕は真面目だったので、言われたとおり、頑張って声を出しました。
次の瞬間、近くの男子が吹き出しました。 「今の誰? 声、女子みたいなんだけど」
笑い声は、たぶん数秒のことでした。 でも僕はその数秒を、30年たった今でも再生できます。
連載「話せなかった僕の記録」の第3話です。 前回は、会話のなかった家のことを書きました。 今回は、僕の声がコンプレックスになった日の話です。
声変わりが、来なかった
中学に入ると、周りの男子の声は次々に低くなっていきました。 かすれて、ひび割れて、ある日別人のような声になる。 それがなんだか大人の仲間入りのようで、うらやましく見えていました。
僕の声変わりは、遅かったのです。 中2になっても、僕の声は高いままでした。 電話に出ると、相手に母と間違えられることもありました。
早く来てほしい、と思っていました。 低い声になれば、少なくとも声で目立つことはなくなる。 順番を待つように、自分の番が来るのを待っていました。 でも、こういうものは待っている間が、いちばん長いのです。
それでも、普段は目立たずに済んでいました。 もともと無口で、大きな声を出す場面がなかったからです。 家で身についた「声をひそめる習慣」が、皮肉なことに、声を隠すのにも役立っていました。
ただ、音楽の授業だけは逃げ場がありませんでした。 歌は、声を張らないと成立しないからです。
頑張った結果、笑われた
あの日のことで、いちばんこたえたのは何だったのか。 今になって考えると、笑われたこと自体ではない気がします。
あれは、僕がまじめに頑張った瞬間でした。 先生の指示どおり、勇気を出して、いつもより大きな声を出した。 その「頑張った声」が、そのまま笑いの対象になったのです。
手を抜いていて笑われたなら、まだ言い訳ができました。 全力が笑われたので、言い訳の余地がありませんでした。 「僕の声は、出すと笑われるものなのだ」 そういう理解が、そのまま体に刻まれました。
それからの音楽の授業では、口だけ動かして、息しか出しませんでした。 音楽だけではありません。 授業中の音読、出席の返事、「はい」の一言。 声を張る場面のすべてで、出す直前に一瞬、あの音楽室がよぎるようになりました。
声は、隠せない
顔や体型のコンプレックスなら、まだ隠しようがあるのかもしれません。 でも声は、コミュニケーションのたびに必ず外に出ます。 話す、というごく普通の行為が、毎回コンプレックスの発表会になるのです。
女子と話すことは、できませんでした。 話しかけられただけで緊張して、汗が出て、頭が真っ白になりました。 言葉の中身よりも先に、「この声で答えるのか」という抵抗が立ちはだかるからです。
もともと家で会話の練習をしてこなかった僕にとって、声のコンプレックスはとどめのようなものでした。 話す内容にも自信がない、その上、声そのものにも自信がない。 僕はますます、黙っている側の人間になっていきました。
この悩みを、誰かに相談するという発想は、当時ありませんでした。 前回書いたとおり、僕の家には悩みを話す習慣そのものがなかったからです。 それに「声が高くて嫌だ」という悩みは、口に出した瞬間に、またあの声で笑われる気がしました。 悩みの内容と、悩みを話す手段が、同じ「声」だったのです。 これは、声で悩んだことのある人にしか、わからない袋小路かもしれません。
今も、好きではないけれど
やがて声変わりは来て、僕の声は人並みの高さになりました。 でも、刻まれたものは声域のようには変わりませんでした。
正直に書きます。 僕は今でも、自分の声が好きかと聞かれると、返事に困ります。 録音された自分の声を聞くのは、今でも得意ではありません。 声を出す直前の、一瞬の身がまえも残っています。
それでも、声との付き合い方は、あの頃より少しだけ変わりました。 その経緯は、この連載の先で書いていきます。 「声が嫌いなままでも、話すことはできる」というのが、今の僕の実感です。
もしあなたにも、声を笑われた記憶があるなら。 あのとき笑った誰かの数秒が、あなたの声の価値を決めたわけではありません。 そう言い切れるようになるまで、僕は長くかかりましたが。
笑った側は、たぶんあの日のことを覚えていません。 彼らにとっては、教室でよくある数秒のひとつだったはずです。 覚えている側と、覚えていない側がいる。 コンプレックスというのは、そういう不公平なものなのだと思います。
次の話
声を出せなくなった僕の中学生活は、「聞いているだけ」の毎日になりました。 通学路で、友達の話にうなずくだけだった話。 そして、よくしゃべる元気な女子が苦手になった、その「嫌い」の正体について。 次回は、そのことを書きます。